昭和四十八年七月二十三日 御理解第七十六節
「人間は人を助けることが出来るのは有難い事ではないか。牛馬は我が子が水に落ちても助けることが出来ぬ。人間がみると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
前半の所はその通りでございます。牛馬は自分の子供が水に落ちておっても、それを助けることが出来ぬ。それを人間が見ると助けてやれると云うことはこの通りですけど、人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるからと云うところ、ここのところを頂かねばならん。
成程病気災難の時にいろいろ様々な難儀のことの中から神様のおかげで助けて貰うと云うその助かりの喜びと、その助かりの信念をもって人の難儀を助けるのが有難いと心得て、いよいよ信心させて頂かなきゃならないと云う訳です。
それはここんところを例えば、何と云うんですか、助かってしまう。例えて申しますと経済なら経済の面で難儀をしておりますと、自分がこう沢山のお金持ちにでもならなければ、助けられんと云うことはない。例えば、その日その日の御繰合わせを頂く具合いと云うものが、何と神様の働きを思わねば居られないようなと云うおかげなんです。
病気災難でも同じ事。自分が健康になってしまわなくてはと云うのではなくて、いろいろと信心させて頂いて居りますと、様々な難儀に直面致しますけれども、それを一心にお縋りさせて頂いて、それこそ一心の真を捧げてのお願いから、いわば人間の知恵、力ではどうにも出来ないそれこそ、神様のおかげで助けて貰うのであるから、その神様のおかげで助けて貰うのであるから、人間の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと仰るところが、お願いをしてもおかげにならん。そこでです、神様に助けて貰うと云うのは、只神様助けて下さいと云えば助けて下さるのじゃないです。
それこそお取次を願いお取次を頂いて帰るところに、助かる道が開けて來るのです。そこから神に助けて貰うのであるからと云う働きが生まれて來るのです。でないとここの処が嘘になる。
神様は助けもきらんくせに、こういう事を云うて居られると云うことになって來るのです。
人間は病気災難の時神に助けて貰う。もうこれは絶対のものとして云って居られる。人間は病気災難の時に神に助けて貰うのであるから、だから助けて貰わなければならん。
それを只お取次お願いしますと云うて、お願いしただけでは助からん。そのお取次を頂いて帰らなければ。御教えを頂いて、その御教えを頂かなければならんその御教えを自分自身がここんところが一番大事です。
そこで、ここで神に助けて貰うことの絶対の助かりと云うことの内容と云うものを、私共が検討しなければならない事になります。
神様は又お取次を下さって金光大神がお取次下さって、金光大神はどう教えて下さるか、その教えの内容はギリギリ信者のところは和賀心です。確かに助けて貰う為には和賀心に一生懸命なりゃええです。
どんなに病気でも災難でも、和賀心が欠如しておるときです。病気災難が起こるのは心の中が生き生きとして、和賀心、やわらぎよろこぶ心、いわば満ちておる時には病気災難やらある筈はありません。例えば、その病気災難の起きて來る時であっても、その和賀心の働きと云うのはそれこそ、大難は小難、小難は無難と云うけれども、大難を無難でおかげの頂けれる状態が頂けれるのです。和賀心と云うのは・・・・
これはどういう場合であってもわが心、どういう問題であっても、病気であってもその和賀心の欠如を気付かせて貰うて、無くなっておることを気付かせて貰うて本気で和賀心を求めて行く信心。そこから和賀心が与えられる。その和賀心生き生きとしたその喜びがおかげをもたらす訳です。だからもう、それだけに尽きますけれども、それだけでは私共が余りにも大きい信心ですから、けれどもこれだけは必ず与えなければいけないのですよ。
皆さんがもし難儀を感じるとするならば、今わが心が欠けておる時です。だから和賀心を頂かせて頂く為に本気で本心の玉を研くことに、改まることに、本気で本心の玉を研き改まることに、本気にそれに取り組ませて頂いたらもうそこから喜びの心は頂けるものです。いや、神様が与えて下さるです。改まると云うことに本気になるから、研こうと云うことに本気になるから、私はその内容をです、私は今日は松竹梅。
私は昨夜遅くテレビ・・・今日はお芝居があるからと云うて、家内がそのチャンネルに合わせておて呉れた。それで久振りで見るのですから楽しんで見ておりましたら、天神記があっておりました。
天神記と云うのは菅原道真公お芝居なんです。それを初めのところから、加茂堤のところから、賀の祝いというところの三つ児の松竹梅のね、松王丸、海王丸、桜丸と云う三人の兄弟のお芝居なんです。それが菅原道真天神様に全部が変わって行くと云うお芝居なんです。
その舞台に松竹桜が大きく生まれると同時に三つ児ですから女親が綺麗に植えて居るその場面を頂くんです。それでどういう事だろうかと思いよりましたら、今日の七十六節を頂いて、まあここんところで一番大事なところは、肝心なところはですよ、何処を頂くべきかと思うたら、病気災難の時神に助けて貰うのであるからと仰る。 神様はもう助けるのは当たり前の様にして、もう淡々として表現しておられることです。ですからこれは、頂く方が本なことである。頂き切らんのがおかしいとです。神様がやろうと云いござる、私共が頂きたいと云うのですから、それで頂けんと云うならば、助けたい助かりたいと云うその中に何かがある訳です。障害になるものがあっとる訳です。ははあ、成程最近は和賀心が欠如してしまっとることに気付いたところからです、これはいよいよ本気で改まらにゃ、本気で研かにゃと云うことになって來ると、もう喜びの心は生き生きと湧いて來るものです。けれども、確かに和賀心なんですけれどもです、その和賀心の内容と云うものを、ははあ今日お知らせに頂いた梅松桜と云うのはこのことの内容だなと今日思いました。
梅と云うことは勿論辛抱です。神様が袖にしなさる時でも、こちらがもう一辛抱と辛抱しぬくとき、神と云う字になると先日お知らせを頂いてですね、袖と云う字、袖と云う字にもうちょこっと心棒を付けると神という字になるでしょう。もう難しか、もう駄目と自分で断念して仕舞う。ここんところもう一押しもう一辛抱いうところで神になるのです。
袖と云うことは、袖にする。神様がおかげば、例えば下さらない筈のおかげでもです、氏子の一心がそこに辛抱と云うことになって、その様に表れて來るときに信心辛抱の徳に依って助かることが出来る。いわゆる松の信心。心を大きくいよいよ持たねばならない。木偏に公と書いてある。難儀に直面すると、もう心がこまくなってしまう。目の前が真っ暗になって仕舞う。ああ、どうなるじゃろうかと取り越し苦労ばっかりする。心が小さいからです。いわゆる公のこと、一番正当派とでも申しましょうかね、信心の。
皆さんが合楽教会の大発展を願うことが中心である。もっと大きくなったら、世界真の平和、総氏子身の上安全と云った様な事が本当にその事が信心の中心であるような大きな信心。
自分の事より人の事、自分の家の事より教会の事が願わずにはおられない云う程しの信心が、これは大きな信心です。
そういう信心には行き詰まりがないのです。どういう事があってもこういう大きな願いを立てて居るのであるから、この位の修行は当り前。もうこの苦労が苦労に全然感じないのです。そういう信心が欠けておった。
只自分の目先の、自分の難儀なことばかりに終始しておると云った様な小さい信心から、ああ松の信心が欠けて居ったなあ、いやお願いはしよったけれども、それは口先ばかりのお願いであったなと云うことに気付かにゃいかん。
最後に桜の信心。
桜は散際が素晴らしい。いわゆる清い信心が欠けておる。昨日も私は或お取次をさして貰うた。どうもこの頃から体がおかしいから、お医者にかかった。ところがお医者さんは絶対安静と云う。そういう時です、例えばお医者さんに診せるとお道の信心しておってお医者さんに診せる或程度の資格と云うか、いわば信心者の資格を受けて居ると云うことは、医者に診せても良いと云う資格はですね、もう例えばどういう風に診断が下りてもそれで自分の心が全然動かないと云うこと。
久留米に或方が熱心に参って來よった。病院に行った。そしたらお医者さんがこうして首をひねらっしゃった。ようあなた、こげな体で歩いて来なさったですねと云うて、胸の病気の大変もひとつ難しい病気であった。本当にあなたようこげな体で歩いて来なさったねと云われて帰りにはパタッと足が動かんごとなった。
医者は或程度催眠術をかけるようなもんですよ、人間に。医者は魔術師です、或意味で。これは大丈夫、大丈夫と云うたら歩いてトントンやって來るとじゃ。けどこれは貴方絶対安静にしとかんなんばい、あなたようこげんとで歩いて来たなと。歩いて来とるとじゃもん実際。ところがもう帰りには、もう足が動かんごと感ずる。
そんな位ね信心では、私は医者にかかる資格はないと思う。
これは本当にお道の信心を頂いてと云うことですよ。
信心の薄い時にああ一にも薬、二にも薬お医者さんと云いますが、それは信心が薄いとき、それでも祈れ薬れにすればおかげになると仰るのですから、薬れ祈れにするからおかげにならんと仰る。ならそりけんと云うて例えば今申しますように。それは例えば私が糖尿病、高橋さんがついて来て下さった様に、もう私は本当に絶対安静でなかりゃいかんと云われた。絶対あれを食べちゃいけん、あれを飲んじゃいけんと云われた。私はその帰りにあの医大に行きましたから帰りにはお腹が空いたけんで御飯食べげに行こうやと云うてから、篠山城のレストランに御飯食べに行きました。それは当り前に頂いて帰りました。もうそげなことなんか全然心に、そうれは云うならば糖尿病と云う名の神様の御都合としか思ってないからです。
だからそういう心の状態になるときです、医者にかかることも有難い。これは素晴らしいのですよ。これは私で云うなら最高のところです。けどお互いが神様だけでは心許ないから薬も飲もう、医者にもかかろう、そして神様にお願いして、薬も飲もう、注射も打って頂こう。それもいいです、祈れ薬れにすればおかげになるのです。 かと云うて、医者にかかって医者が首を捻る、そげな時には心配なるならです、その心配する心で信心すればまたおかげが受けられるです。
だからそこには、幅が沢山あります。段々信心させて頂いとると、医者からく云われたけれども、そういう事は全然もう無頓着、問題ではないと云う程のおかげ、そういうのを私は桜の信心だと思う。いさぎよい、もう心の底にはいつもままよと云う心がある訳です。ままよとは死んでもままよと云うことぞと。
そういういさぎよい信心が最近は欠けておると分かる。いわば病気災難の時神に助けられるという、助けて貰うその内容と云うのは勿論和賀心。この和賀心が頂けれる為に本心の玉を研きもしよう、改まりもしようと云うことに、本気に取り組んだらそれでおかげを受けられる。
その内容と云いますと、今申しまたような松竹桜と云う様な内容の信心が、どれかが欠けておると云うこと。又はこの難儀をこの際難儀をどういう信心、どの手で今度はおかげを受けようかと云うことを見極めることも大事です。
ははあここは、桜の花のいさぎよいところでおかげ頂くと見極めねばいけません。目を付けなければ、ここはひとつ信心辛抱し抜かせて頂いて、信心辛抱で今度はいっちょおかげを頂かんならんと見極めを付けにゃいかん。
成程これを境に本気で教会の事の大発展を願おう、自分のことは忘れられる位な、自分の難儀を忘れる位に教会中心に大きな願いをかけようと云った様な、かけようと云うその時の、例えば自分の信心のかけどころ焦点の置き処と云うものをです、この度のこの難儀はこの信心で行こうと云う一つの見極めを付けにゃならん。そしてその信心をいさぎよく又は素直に又は辛抱強く、又は大きな心でというようにそのおかげをおかげにして行く。ここんところに成程神様、難儀なときに神に助けて貰うのであるからと云うはっきりした確信と事実おかげも表して行くことが出来る。そういうおかげを私どもが受けて行く。
人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。皆さんの例えば五年も信心しとられるならば、その五年もの間にはです、ほんにあの時にはあの手でおかげ頂いた。あの時はあの行き方でおかげ頂いた。と云う体験を皆様お持ちでしょうが。あの時に親先生にああ云う風に気合いを入れられてああ云う風に信心にならして頂いたら、あれからおかげを受けたと云う体験をお持ちでしょうが。だからその時点で人を助ける働きをっして頂いたらよいのです。
助かってしまわなければ、例えば経済の面でも自分が億万長者のならねば人が助からんちゅうことじゃないのです。
あああの時に金がなくてどうにも出来んと思うとった時にお取次を頂いたらあの様な不思議なお繰合わせを頂いて、おかげを被ったと云う体験を持つとりゃ、それで人を助けることが出来るですよ。
同病相憐れむです、そういう難儀の人を見るときに、こういう信心さして頂きなさら、こういうおかげが頂かれますよと話すことが出来るでしょうが。
今日はそういう意味で聞いて頂きましたですね。 どうぞ、